

1)パンデミックが明らかにしたもの

新型コロナウイルスの累計感染者数は世界で1990万人を超え、死者数も73万人を上回っています。
その感染拡大にはまったく歯止めがかからず、国連のグテーレス事務総長はオンラインの記者会見で
「ウイルスがわれわれを屈服させている」
と述べ、強い危機感を表明しています。
我が国においても、東京都を中心に感染者数は再び拡大傾向にあり、「第2波」の到来の様相を呈してきました。
感染が拡大し始めた3月中旬、事態がここまで悪化すると思った人は少数だったはずです。
新型ウイルスの世界的感染爆発が意味しているのは、文明の誕生とともに出現した
「疫病」
という脅威が、高度にグローバル化した世界の脆弱さを鋭く突き、猛威を取り戻したことでしょう。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、一般的に苦難の予言と解釈されている「四騎士」(Four Horsemen of the Apocalypse)が登場します。

『黙示録の騎士』。ヴィクトル・ヴァスネツォフ作(1887年)
白い馬に乗った者が「支配」、赤い馬に乗った者が「戦争」、黒い馬に乗った者が「飢饉」、青い馬に乗った者が「死」と、それぞれの役目を担っていて、第四の騎士は
「疫病や野獣を使って地上の人間を死に至らしめる」
とされています。
聖書が成立した時代の疫病の脅威は、現代とは比較にならないほど巨大なものだったことでしょう。
科学や医学の著しい発展がもたらした恩恵によって、人類は間違いなく、長らく恐怖の対象であった疫病に打ち勝ちつつありました。
ところが、グローバル化の進展を中心とした大規模な構造変化と、経済効率を優先した油断が惨禍を再来させてしまったのです。
のみならず、この大禍は、すでに超長期の低迷状態に陥っていた日本の先行きをも一層暗いものとしています。
それでも、コロナはきっかけに過ぎません。
現在の混乱は来たるべくして現実のものとなったのであり、その根底には危機意識を失い、多年にわたりなすべきことを先送りにしてきた
「国家と国民の退廃」
があると言われたら、あなたは否定できますか?
とりわけ、冷戦終結とともにルールが激変した世界に対し、日本国及び日本国民が「正しく」対応してきた、とは言いがたいのです。
2)平成以後、わが国は没落を続けた
昨年末に内閣府が公表した国民経済計算年次推計によれば、2018年の日本の名目GDPはドルベースで4兆9564億ドルとなり、世界全体に占めるシェアは前年同期比で0.3%低い5.7%となり、
「下落傾向」
が続いています。
名目GDPの規模は米中に次ぐ世界3位であり、日本が承認している国の数が195か国(日本を加えると196か国)あることを考えれば、いまだに「経済大国」であるとは言えるでしょう。
が、ピークの1995年には、日本のシェアは17.5%だったのです。その凋落速度は驚くべきものであり、四半世紀を経ずして3分の1以下になってしまったことになります。
1位のアメリカがそのパーセンテージをほぼ維持し、2位の中国にいたっては驚異的な拡大を見せていることと比較していただければ、その特異さがあらためてご認識いただけるはずです。

データ出典:総務省統計局「日本の統計2020」
一人あたり名目GDP(ドルベース)を見るとさらに衝撃的で、IMF(国際通貨基金)の統計によれば、2000年の2位から2018年には26位にまで下落しているばかりか、
OECD(経済協力開発機構)の公表データでは2019年時点で、韓国にほぼ並ばれてしまっているのです。
これが、「失われた20年」を超え、「失われた30年」を迎えつつある日本の現実です。そして、
「日本を抜いた」とされる2010年以後、たった8年で日本の約2.7倍にまで名目GDPを拡大させた中国を始め、世界各国はIMFが
「大恐慌以来最大の落ち込み」
となることを予想するに至った「コロナショック」の到来まで、順調に経済成長を続けていました。我が日本は、「世界で唯一成長していない国」という不名誉極まりない状況を長らく続けてきたことになります。
もちろん、「経済成長がすべてではない」という考え方もあるでしょう。それでも、国力の要が経済力であることは厳然たる事実であり、それが安全保障にも直結していることは否定できません。
短期間に経済力と軍事力に重大な変化が生じ、パワー・バランスが崩れつつあることこそが、東アジアの安全保障環境が激変している真因なのです。
3)「中華化」の未来を回避できるか
アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが1996年に著した『文明の衝突』で、世界には七つないし八つの主要文明があるとした上で、日本を独自の文明圏と位置づけました。
しかし、同書に書かれている次の衝撃的な予測を、あなたはご存じでしょうか?
それは、21世紀前半にはアメリカが東アジアから退き、
日本は中華文明圏に飲み込まれる
という恐るべきものです。それどころかハンチントンは、
“アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、インドはこうして中国と日本とイスラムの大部分を相手に真の世界大戦に突入する”
とまで書いているのです。
なるほど、戦後日本はアメリカとの同盟、ないし従属のうえに、みずからの存立と繁栄を確保しようとしてきました。
そのかぎりでは、中国よりはアメリカに近いと言えるでしょう。
しかし問題は、長らく続いた対米従属により、日本は自立していると言いがたい状態にあること。
中国の覇権の確立が進み、かつアメリカに頼れなくなったとき、はたして中国に尻尾を振らずにいられるでしょうか?
現政権はアメリカとの親密さを強調する一方、中国に擦り寄る姿勢も見せつつある。
コロナショックが副次的にもたらしたことは数多く、その一つには「習近平・中国国家主席の国賓来日延期」もあります。
ウイグル、チベットで凄まじい弾圧を続け、香港の一国二制度を破壊し、台湾への圧力を強めているのみならず、我が国の尖閣諸島周辺への侵犯を繰り返し、南シナ海や東シナ海においても「覇権拡大」を加速させている、
政治的抑圧を辞さない全体主義国家
それが、共産党の一党支配が続く中華人民共和国です。
その中国がアメリカと覇権争いを始めた上に、未知のウイルスによるパンデミックの発祥地ともなったタイミングで、愚かにも「免罪符」を与えかねない選択をしつつあったのが、我が日本です。
日本の岐路になる可能性が高い誤った選択がひとまず回避された理由は、ほかならぬコロナのパンデミックという不可抗力にすぎず、まだ「国賓来日」の計画そのものがなくなったわけではありません。
過去を振り返れば、1989年6月の「天安門事件」で国際的な非難が集中していた中国にたいし、真っ先に手を差し伸べたのも我が国でした。
史上初となる「天皇陛下の訪中」まで実現させてしまったことが、中国が国際社会へ復帰を果たすための強力な後押しになったのです。
そして現在の中国は、当時とは比較にならない国力を持つにいたった。
20世紀前半のわが国は、自国中心の覇権秩序に中国を組み込もうとしましたが、21世紀には逆の事態が生じるかも知れません。

1)神話は「世界と個人の接点」だ
なぜ、我が国はこのような体たらくに陥ってしまったのでしょうか?
佐藤健志先生は、その根本原因が、
国のあり方をめぐる根本的な物語=神話の喪失・形骸化
にあることを喝破されています。
しかし、ここでいう「神話」とは何を意味するのでしょうか?
『サピエンス全史』の著者、ユヴァル・ノア・ハラリは、約七万年前に起きた「認知革命」が「歴史を始動させた」と断言しています。
“「気をつけろ!ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている”(『サピエンス全史文明の構造と人類の幸福(上)』)

つまり、現生人類(ホモ・サピエンス)が、他のヒト属を含む動物を圧倒的に凌駕し得た真因は
「虚構を語る能力」
にあると言うのです。
もしも「ライオンだ!」というような「事実」しか語ることができないならば、集団の自然な大きさの上限はおよそ150名程度に過ぎないことが明らかになっています。
それを大きく超える数千、数万の軍や企業などの組織、あるいは数百万、数億という都市や帝国を形成し得たものこそ、
「共通の神話」
に他なりません。
企業であれ、国家であれ、顔見知りでもない人々を「仲間」あるいは「同胞」と意識できるのは、「共通の神話」が存在しているからこそ、なのです。
その意味で神話の本質とは
「世界と個人の接点となるような虚構」
だと言えるでしょう。
文化人類学者のジョセフ・キャンベルが、名著『千の顔を持つ英雄』で語ったように、神話は一方において「人生の方向性を提示する」機能を持ち、他方において「世界の構造を提示する」機能を持つのです。
ですから、そのような機能を持った虚構であれば、神話と呼ぶに値します。
このような虚構を共有できることこそが、巨大な社会集団の一員であることの最も重要な条件なのです。
我が日本も、昔から様々な「共通の神話」を持っていました。
2000年以上にわたり、連綿と続いてきた皇室も、それ自体がひとつの神話であると言えるでしょう。
1945年(昭和20年)、敗戦をめぐる外交交渉において、「国体」としての皇室を守ることが重要な基準となったのも、こう考えると理解できます。
政府は日本人の世界観が崩れ、それによって日本人のアイデンティティも崩れてしまうことを恐れたのです。
建国神話に始まる一連の「記紀神話」は、〈皇室という神話を支えるための物語〉であり、その意味では神話をめぐる神話、メタ神話と位置づけることもできるでしょう。
もちろん、神話が悪用されることもあります。
統治者による圧政の道具にもなり得るし、国の発展どころか、衰退・没落を引き起こす場合もあるでしょう。
長い歴史の中では、そのような事例も多々生じてきました。
それでも、神話ぬきに国や社会は成立しません。
合理主義を基盤とし、「神」などとは無縁そうに見える近代国家でも、「自由と平等」「民主主義」「経済発展」といった神話に支えられている。
否、平成以後の日本が衰退・没落の道をたどったのも、人々が「構造改革」「新自由主義」「グローバリズム」といった、間違った神話を信じたせいではないでしょうか?
2)ナショナリズムと経世済民
国家の基盤には「ナショナリズム」が不可欠です。
これには危険な側面があることも否定できませんが、戦後日本ではごく最近まで、ナショナリズムを「語る」こと自体がタブーとされてきました。
しかし国家が政治の基本単位であるかぎり、ナショナリズムこそ民主主義の基盤にほかなりません。
民主主義とは、国民全体に主権があるという前提のもと、政治参加の権利を幅広く与えること。
ごく大ざっぱに言えば、
「大事なことはみんなで議論をして決める」
となりますが、議論をして物事を決める「みんな」の範囲は、一体どうやって決めるのでしょう?
物事を決める「みんな」の範囲には、納得できる仲間意識が不可欠です。「同胞意識」と呼んでもいいでしょう。
そして、現代ではその最も基本的な範囲が「国民」となります。ナショナリズム(Nationalism)は、「国家主義」と訳されることが多いものの、本当の意味は「国民主義」です。
つまり、
「ナショナリズムなくして民主主義は成り立たない」
ということになるのです。
そしてナショナリズムも、一方において「人生の方向性を提示する」(=自分は特定の国家/国民の一員だというアイデンティティを与える)機能を持ち、他方において「世界の構造を提示する」(=世界はそのような国々から成り立っており、自国がどこまで繁栄するかは、他国との関係、とりわけ力関係によって大きく決まることを示す)機能を持つ。
つまり、これも神話なのです。
そしてナショナリズムのもと、国は「経世済民の神話」とも呼ぶべきものをつくりあげる。
近代日本で言えば、最初に確立されたのは
「富国強兵」
の神話でした。
欧米列強による植民地化の危険を回避し、産業化の推進によって国力を強化、安定した存立の基盤を手に入れる。
時代の状況を思えば、まっとうな国家戦略です。
というより、ほとんどの国は今なお、この神話に基づく国家戦略を追求しているのです。
貧しく弱い国が、そうそう時代の変化に適応できるはずはないので、これはまったく当然のこと。
ところが敗戦後の日本はこの神話から目を背け、安全保障を他国(つまりアメリカ)任せにしたまま経済発展に専念するという
「富国弱兵」
の神話を選択しました。
敗戦国が再興を目指すに当たっては、それもやむを得ざることだったと言えるでしょう。
しかし問題は、富国弱兵路線は根本において脆弱なこと。
豊かでも弱いのですから、これまた当然でしょう。
すなわちこの路線は、日本がある程度復興・発展した時点で、思い切って見直されねばならなかった。
それを怠り、アメリカへの依存や従属に慣れきってしまったために、わが国は激動する世界情勢に対応できなくなっているのです。
3)アメリカへの被害者意識に逃げこむな
敗戦後、わが国は7年近くにわたってGHQ(連合国最高司令官総司令部)の支配下に置かれました。
初期の占領方針が、日本の徹底的な弱体化を目的としていたことは間違いありせん。

昭和天皇とマッカーサー
その具体的な方策の一つとして、すっかり有名になったのが
「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」
つまりWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。
これによって日本人は洗脳されてしまったのだ、とお考えの方も少なくないことでしょう。
しかし、現実はそれほど単純なものではありません。
まず占領政策そのものが、冷戦の深刻化によって大きく転換されている。
1950年、マッカーサーは憲法九条のもとでも日本には自衛権があると言明します。
独立直後の1953年になると、当時の副大統領リチャード・ニクソンが来日、憲法に戦争放棄を盛り込んだのは間違いだったとして、暗に改正をうながしているのです!
なぜ日本人は、これらの言葉に耳を貸さなかったのか?
お分かりでしょう。
GHQ、ないしアメリカへの被害者意識に逃げこんではいけません。
日本人は
「占領改革で日本は良くなった、だから負けて良かったのだ」
という倒錯した神話を自ら選択し、それを捨て去ることができないまま戦後秩序を築き上げてきてしまったのです。
たしかにわが国は、この神話のもとで高度経済成長を達成し、少なくともいったんは経済超大国となりました。
今では想像すら難しいかもしれませんが、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルが
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
と評したように、ほんの30年前まで「いずれアメリカを抜く超大国となる」という予測も、それなりの説得力を持っていたのです。
が、間違えてはならないことがあります。
われわれは「神話が倒錯していたにもかかわらず」奇跡の発展を遂げたのであり、「神話が倒錯していたおかげで」奇跡の発展を遂げたわけではありません。
これは一面においては、日本人の活力や優秀さの賜物でしたが、別の一面においては、アメリカの覇権や冷戦といった、20世紀後半の国際情勢がもたらした幸運にすぎませんでした。
裏を返せば、「倒錯した神話のもとで発展・繁栄する」状況が永続することはありえません。
現に国際情勢は激変し、世界のルールも大きく変わってしまいました。
「負けて良かった」を基盤とする「富国弱兵」の戦後神話は、その中で形骸化の道をたどります。
こうして「日本はこれからも発展する」という神話までが失われていったのです。
そのかぎりにおいて、日本の低迷・衰退は必然の帰結と言わねばなりません。
ただし・・・

1)日本復活のチャンスはある
わずか30年前には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が論じられていたことが示すように、平成以後の衰退・没落も、永続を運命づけられているわけではありません。
「富国弱兵」という戦後日本の経世済民神話、
さらにはその根底にある「負けて良かった」神話にひそむ歪みを正し、
より持続的な発展・繁栄を可能とする「日本復活の神話」をつくりあげる。
これができれば、事態はふたたび逆転します。
この根本にあるのは、むろんナショナリズムの再評価。
しかしみなさんは、それが何を意味するのか、本当にお分かりでしょうか?
たとえば佐藤先生は
「ボディ・ポリティック(BODY POLITIC)」
の概念を重視します。
ボディ・ポリティックとは、統合された存在としての「国民」ないし「国家」という意味で用いられる概念で、元々は国民が文字通り「一つの巨大な身体」を構成するイメージでとらえられていました。
ナショナリズムも、語源的には「出産」を意味しますので、ボディ・ポリティックとの共通性は明らか。
しかるにこの発想に立つとき、われわれは「ナショナリズムにおいて〈弱者切り捨て〉は許されない」という真理に直面します。
それはちょうど、自分の手足を切り落とそうとするにひとしい行為なのです。
コロナ・パンデミックにおいて、「ボディ・ポリティック」の概念は、まさに文字通りのものとなりました。
日本人が全体としてウイルスを制圧しなければ、個々の日本人の健康も保証されません。
経済活動再開にこだわるあまり、「高齢者や病弱な者がある程度犠牲になるのは仕方ない」と構えるのは本当に合理的か?
財政出動をしぶるあまり、「経営体力のない中小企業がある程度つぶれるのは仕方ない。そのほうが市場は活性化する」と説くのはどうか?
答えはもはや明らかでしょう。
これらはボディ・ポリティックを損なうものであり、ゆえにナショナリズムを否定するものにほかならない。
こんな発想で経世済民が達成されることはありません。
ところが「過剰自粛」や「財政破綻」といった間違った神話を信じ込むと、上記の行動が正しいかのように思えてしまうのです!
人々を幸せにする神話が失われ、不幸にする神話が共有されている。
これが先生の問題提起です。
そして、この状態に陥った原因と経路、積み重ねられた過てる選択の数々について、丹念に解き明かしてこられました。
2)未来を拓く集中講座
2020年代、日本及び日本国民が再び繁栄を取り戻すために最も重要なことは何か。 戦後史、とりわけ戦後日本の「建国期」ともいうべき占領時代と向き合い、
「持続的な発展・繁栄をもたらす経世済民神話」
をつくりだすことである。
これが佐藤先生の提言です。
この重要な提言を、危機感を共有いただける有志の皆様に、直接お届けする講座を開講いたします。
- 繁栄の基盤であるかのように見なされる「平和主義」が、実際には貧困へと必然的にいたるメカニズムや、
- 現在の異常な「緊縮財政」志向が、なんと「戦争放棄=善」の発想にあったことを、精緻な歴史研究にも裏付けられた確かな視点で解き明かしてこられた佐藤先生が、
- これ以上、目を背け続けることが許されない「戦後日本の真実」をあなたに突きつけるとともに、われわれが手に入れるべき「経世済民神話」を提示する。
本講座を修了されれば、世にはびこる不確かな俗説やおかしな陰謀論、結論ありきで思考停止した空虚な左右対立などに二度と惑わされることは確実になくなります。
ご存じのとおり、インターネットの普及により、膨大な情報がいとも簡単に手に入る時代が到来しました。
その恩恵がいかに大きいかについては、
「誰でも20年前のアメリカ大統領より多くの情報を集められる」
という指摘があるほどです。
しかし、そうした時代だからこそ、日々洪水のように溢れ出る情報は、玉石混交どころか「大多数がゴミ同然」の状態に陥りつつある。
「明白なデマや、結論ありきの詭弁」に惑わされるリスクも、恩恵とともに急拡大してしまったと言わねばなりません。
インターネットというメディアは構造上、自分の聞きたい意見だけが集まりやすい特徴を持ちます。
自分の耳に心地よい意見ばかりが目に付き、特定の信念が増幅され続ける「エコーチェンバー現象」や、
検索サイトのアルゴリズムが見たくない情報を遮断してしまい、幻想の泡につつまれたように自分の見たい情報しか見えなくなる「フィルターバブル」に陥ることを避けるためには、明確な視点、すなわち「眼力」を伴う確固たる意志が必要です。
不確かな根拠や、ありもしない前提に基づく思い込みを強化しつづけていては、時代の混迷に立ち向かう胆力を身につけることはできません。
よって、未来を拓くことも望みえない。
私たちは本講座を通じ、物事を正確に見極めることができる
「確かな眼力」
を、あなたに身につけていただきたいと願っています。
佐藤先生の持つ
明晰な視点と他の追随を許さない高度な分析力
を習得していただくことこそ、本講座の目的なのです。
これは一度手に入れさえすれば、生涯にわたってご活用いただける強力な武器となることでしょう。
ここで佐藤先生から直接の講義を受けていただくことは、真実を追求するあなたにとって、最高の体験となるはずです。
以下に、その講座の詳細をお知らせします。